会社沿革

HISTORY

NSデッキ(路面覆工板)の開発

路面覆工板に着目

昭和39年秋の東京オリンピック開催に期待をかけ、建設事業が盛り上げる景気は37年秋から“  オリンピック景気"と呼ばれて藩を開けたが、このころの建設関連の活況は必ずしも首都圏だけのものではなく、名古屋・大阪でも東京と同様に地下鉄工事が活発に進み、これが各都市の道路混雑に拍車をかける結果となっていた。 
昭和37年、利根工場が稼動を始めたころから、地下鉄工事に用いられる路面裂エ板の開発にとりかかっていた当社は、年末にプレストレスト・コンクリート覆工板の試作を迎えるに至っていた。 
もともと地下鉄工事に用いられる路面毅工材は、木材製品が主流であったが、やかて鉄鋼製品に代わりさらにはコンクリート製に代わる要望も多かった。 
覆工材架設の安全度、耐外性・施工難易度や安定性・互換性・スリップ問題・電気絶縁や路面としての美観の程度などを考慮すれば覆工材のあり方についての問題は非常に複雑であった。 
 当社では,「覆エ板の用途は元来仮設工事用であるが、強 度的にも耐久的にも、道路構造令に準拠した構築物と考えなければならない。したがって、その安全性は絶対のものであることが原則になる」として次の必要条件を設定した。

①強度が十分であること
②耐久的であること
③価格が安いこと
④安定度がよく騒音がないこと
⑤タイヤのスリップが起きないこと
⑥敷設やてっ去に便利であること
⑦路面として美観をそえること
これらの諸条件を満足させるために、材質から考えられる強さと価格について試算し、他の素材との優劣を比較した結果、 PC板の採用に踏み切り「設計荷重は20トン、自動車荷重にインパクト20 %として9.6トンの集中荷重が働くものとして」設計したのであった。

木製の軌道覆工材(軌道敷内)

NSデッキの公開実験から発売へ

昭和38年10月15日、NSデッキの公開実験が利根工場で行われた。
実験立会者は、帝都高速度交通営団建設本部・覆工材研究委員会、東京都交通局高速電車建設本部並びに軌道課、運輸省船舶技術研究所の各技術陣で実験項目は
1) 荷重とNSデッキ各部のたわみ量の関係
2) 荷重とコンクリート各部の応力との関係
3) 吊上部の引張強さの3項目であった。

破壊試験は、荷重をデッキ(PCコンクリート板をT形梁にして連接)の各部に載荷して、そのたわみ最と荷重の関係を記録し、また初期亀裂荷重および最大破壊荷重を出すためさらに荷重を増加させ、そのたわみ慨と荷重との関係を出す方法で行った。 
仮定の段階では、この実験で供試体(PCコンクリート板を四隅で支持)のプレテンションの導入量と、コンクリートの圧縮強度から試算して、斜引張強さ45 kg/㎠とすれば15.8 tでひび割れが起こることになっていたが、実験の結果も16 tでひび割れが発生した。この結果から「供試体についてRC鉄筋の強さや支承部付近の剪断力または捻り力等による破壊は、PC鋼線方向の梁の強さが先行破壊する」ことが認められた。 
実験が行われる数日前から,渡辺社長の厳父が危篤状態に陥っていた。社長は、NSデッキの実験準備に忙殺され,とうとう厳父の死に目に会うことはかなわなかった。 
しかも公開実験の当日が葬儀の日と重った。止むなくNSデッキ開発の概略をテープにふきこみ、黒田顧問に後を託して葬儀に参列している。 
当社ではこの実験結果を踏まえさらに開発努力を重ね、翌 昭和39年8月「路面覆エ板・NSデッキ」として発売したので あった。

軌道敷内はNSデッキ他は鉄板で覆われた日比谷交差点

NSデッキは、帝都高速度交通営団からの指定を受けまた大手ゼネコンを主とする工事業者十数社に納入した。この時NSデッキの表面に滑り止め模様を施したが、これは渡辺社長の創案で惹匠登録209997号となった。 
一方、このPC覆エ板の研究開発に伴って「軌道敷内に利用できるNSデッキ」の研究もあわせて進められたが、この軌道敷内用NSデッキの強度実験も39年4月20日利根工場で行われ、敷設・破壊実験を通して立会各社の認知を得た上で同年発売された。 
これらNSデッキの受注により39年上期(昭和39年4月1 日~9月30日 第19期)の決算報告書は,次のように述べている。 
「今期は一般市場の不況にもかかわらず売上高利益とともに前期と同様の成績をあげることができた。また工場の生産の方も徐々に生産能力を上げてきた。そして来期にはNSデッキの本格的生産の見込みもたったので、プロック製品の売上げが飛躍的に増加することが明らかであり、連接軌道工事の売上増加と相まって相当なる増益を期待できるものと確信する」 

NSデッキの滑り止め模様

NSデッキの敷設風景

軌道敷内NSデッキ(日比谷交差点)