日本軌道用品工業株式会社の発足から
日本軌道工業株式会社へ(日軌40年史より)
日本軌道用品工業株式会社設立


日本軌道用品工業は足立区千住龍田町22番地、通称「おばげ煙突」を目のあたりにする所で呱々の声をあげた。一面の焼け野原のなかにバラックを建ててのささやかなスタートであった。「おばけ煙突」は東京電力株式会社の4本の煙突で見る角度によって、 1本にも2本にも、また3本にも4本にも見えたところから、いつとはなしにそう呼ばれ、当時の東京の名物のひとつとして昭和30年代の後半まで建っていたものである。
社会の土台を支え、人びとの安全で快適な生活の基盤となる鉄道に関わる新しい会社の第一歩が広く人びとに親しまれた場所から始まったのもなにかの奇縁かもしれなかった。
日本軌道用品工業の取扱商品は、軌間ゲージ・フックボルト・アンチクリーパーを主力とした線路用機械器具であり、鉄道軌道用品の製造販売が主であって、今日(昭和62年9月当時)の日本軌道工業はそれと基本的には変わらなかった。
だが、渡辺の真摯な志にもかかわらず事業の方はなかなか軌道に乗れなかった。不安定な社会・経済状態の続くなかで、資金が思うようにならない。物資も相変わらず不足で、こちらの調達もままならない。
そうして出会ったのが佐藤義門氏であった。
佐藤氏は、渡辺の郷里の出身で東京・上野のタカラホテルの創始者であった。ここで新しく佐藤氏を社長に迎え本拠地を千住から台東区御徒町1丁目12番に移した。
渡辺式タイプレートの開発
終戦直後の混乱のなかで軌道は荒廃し、まくらぎに使う木材も逼迫していた。むろんコンクリートまくらぎは普及を見るに至っておらず、いかにまくらぎを長持ちさせるかということと、レールと枕木の締結方法をどうするかが課題であった。それらの答えとして開発されたのが渡辺式タイプレートであった。
昭和25年、国鉄ではタイプレートB型(40分の1傾斜・8つ穴)を開発した。昭和6年に開発されたA型の傾斜は20分の1でレールに摩耗を生じやすく、また幅がやや狭くアンカースパイキがなかったため通過トン数の大きいところでは食込みが激しかったが、B型はこの点を改良したものである。
A型タイプレートはまた、平板(鋼板製)に犬釘孔があけてあり、レールを犬釘で釘落する形式が多く、軌間整正の作業の際はかなり繁雑となった。すなわちレールを左右に数ミリ動かすのに、いちいち犬釘を抜き取ってレールを持ち上げ、かつ またタイプレートをレールに合せて移動しなければならなかったのである。
そこでこれらタイプレートを枕木につけたまま、軌間調節できる形式に改良したのが、 日軌A型タイプレートであった。このタイプレートの本体は鋳鋼製でレール押え金具(コマと称した)が左右につき、そのコマはボルトナット・ワッシャーで締結される構造になっていた。コマは左右の寸法がそれぞれ異なり反転しても使用できるように設計されており、軌間はマイナス5mmからプラス7mmまで調節できるように設計されていた 。
自社製品のタイプレートを売り出す一方、国鉄A型タイプレート(古タイプレート)を簡単に国鉄B型タイプレートに改造する方法も考案している。
小冊子「古タイプレートの改造」によると 「欠点をすぺて解消するため現行B型に鍛造変えすれば、摩耗甚だしき廃品も新品同様に更生できる。改造方法は、古タイプレートをそのまま赤熱して型打鍛造機にかけ、現行B型に鍛造変えする」
というものだった。
しかも「B型価格のほぼ半分で改造できる」と提案している。なお、渡辺式タイプレートは数年を経て日軌B型タイプレートの開発に受け継がれていくことになるのである 。

当時の昭和虚気製鋼ピル

昭和24年実用新案出願された軌條床板(25年7月29日登録)

古タイプレート 改善前(国鉄A型)

改善後(国鉄B型)
日本軌道工業株式会社の誕生
昭和24年、昭和電機製鋼が銀行管理となり軌道事業を読けていくにはどうしても無理があり、また渡辺にしてもタイプレートや軌間ゲージ等を足がかりとして、ようやく軌道用品に将来の展望を見つけることができたので新たに会社をつくるこ とになった。
東京・築地に加藤医院があった。かねてから渡辺は加藤医院の知遇を受けていた。同病院の長男の加藤威氏は日本勧業銀行の宝くじ部に勤めており、日本の宝くじの創始者であった。彼は、昭和11年、東京帝国大学法学部を出て日本勧業銀行に入った人で後の警視総監原文兵衛氏と同窓ということであった。
渡辺の話を聞いた加藤氏は知人緑者にも話をしてみた。当時東京税理士会副会長の高雄時夫氏と副島勝氏、ーツ橋大学出身で大倉商事関連の生保会社に勤めていた古谷観氏。そのほか高村正男氏、田尻清司氏らも参加することになった。
鳩首を集めて軌道用品事業の発展策が議論され検討された。
その結果「ニッキ式」および「日軌式」の事業一切を統合し、新体制で再出発することが決まった。そして新会社は早急に別会社を買収して定款変更を行って発足させることにした。
こうして昭和24年2月15日、 日本軌道工業株式会社が誕生した。新会社の事務所は、中央区日本橋室町2丁目1番の三井ビル本館の中地下に置かれた。社員は社長以下8名であった。

【創立起案会合】
日本軌道工業株式会社のマークと指定文字の誕生
また会社のマークやロゴも加藤氏の友人で当時花王石瞼のマークを作ったデザイナーが作成してくれた。
後に日本軌道工業が日本国有鉄道に提出した(昭和27年)「日軌式B型タイプレート採用願」の会社の沿革で設立の経緯を次のように述べている。
「終戦後、荒廃せる鉄道・軌道の復旧は、線路の補修用資材、特に線路用品の発明考案を商品化するにあることを痛感。斯界の権威者を糾合して昭和22年3月査本金19万5000円を以て日本軌道用品工業を設立し、爾来5年、増資及事業を拡張。下請専用工場との提携等に依り企業化したる数種の特許品を始め、其の他の軌道用品を大量に生産し、国鉄・私鉄を主なる得意先として商標「ニッキ式」または「日軌式」として製造販売をなし、其の売上高は別紙の通り。其の後、社会状態に支配され幾多の変遷を重ねたが、従来の御愛顧と御期待に副ふべく茲に旧 「日軌」の事業一切統合継承し従来の実績を基盤として合理的経営主義のもとに内容、重役陣の一大刷新を断行し新商号日本軌道工業株式会社として新発足したものである」
こうした経緯で日本軌道工業は誕生したが、その誕生の昭和 24年は、奇しくもそれまで官営であった鉄道が日本国有鉄道となり、新たに公共企業体として発足した年でもあった。

【日本軌道工業株式会社のマークと指定文字】